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はじめに
このページでは、中国・内モンゴル自治区のフフホト(呼和浩特)に関することを紹介しています。日本ではまだまだ知名度の低いフフホトですが、草原ツアーに訪れる日本人観光客も年々増加し、最近では日本でも内モンゴルやフフホトという地名が少しは聞かれるようになってきたようです。しかし、旅行するにしても、この土地について知るにしても情報はまだまだ多いものではありません。そこで、フフホトに関する情報を少しでも提供できればと思い、このサイトを開設しました。
フフホトはその歴史から、複雑に文化が交じり合い今にいたっています。漢族、蒙古族、回族など多くの民族が当たり前のように、同じ土地で暮らしていますが、各民族の文化は完全に一体化することは無く、それぞれの個性を残しながら発展しています。外モンゴル(モンゴル国)と内モンゴルの民族は同じ民族であったわけですが、今ではそれぞれ独自の道を歩んでいます。
フフホトは草原の玄関口としての魅力だけではなく、民族、文化が複雑に絡み合い人々が暮らしているという面白みもあります。本来モンゴル民族の母国である、モンゴル国ではその民族固有のモンゴル文字を捨て、今は中国の一部である内モンゴルでは今でも伝統的なモンゴル文字を使いつづけています。そして、内モンゴルのモンゴル語も漢語(中国語)の影響を受け、絶えず変化しつづけています。
フフホトを訪れた方の中には、草原のすばらしさだけではなく、フフホトという土地の面白さを感じた方も少なくはないと思います。そして、これからも多くの日本人がフフホトを訪れる機会が増えていくと思いますが、そんな時に、このページからフフホトの情報を少しでも知っていただけたら幸いです。
2004/11/25
内モンゴル概要
内モンゴル自治区は中国北部に位置し、総面積は118.3万Kuで、日本の面積の約3倍に相当する。北東から南西へのびる細長い形で、東端から西端までの距離は約2,500km、南北の直線距離は約1,700kmに達する。東部、南部、西部は黒龍江省、吉林省、遼寧省、河北省、山西省、陝西省、寧夏回族自治区と甘粛省の8省・区と隣接し、北京、天津に近接している。北部はロシアとモンゴルとの国境に接し、国境線の長さは4,221kmである。
内モンゴル自治区は中央アジアのモンゴル高原周辺地域に位置し、全域の高度は比較的高く、平均海抜高度は約1,000メートルである。そのうち、全区の高原・山地の占める面積は約70%である。
気候
内モンゴル自治区は比較的緯度が高く、西北特有の大陸性気候に属している。全般的な特徴として、春には気温が急に上昇し強い風が吹く。夏は比較的過ごしやすく、集中的に雨が降る。秋には急激に気温が下がり、一気に冬を迎える。冬は長く、厳しい寒さが続く。
年間平均気温は0℃〜8℃で、東北が比較的低く、西南へ向かって上昇する。昼夜の温度差は平均で12℃〜16℃と激しく変化するため、夏季でも衣服に注意なければならない。 降水量は東北から西南へ向かって少しずつ減少する。東部の呼倫貝爾盟、興安盟、通遼市と赤峰市南部の年間降水量は500mm以上で、西端の額済納旗の年間降水量はわずか50である。また、全体的に、日本と比べ空気が乾燥していると言える。
フフホトを訪れるなら、4月から10月が旅行に適しているが、草原に行くのであれば7月から9月が最も良い季節である。
| 年間平均気温 |
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1月 |
2月 |
3月 |
4月 |
5月 |
6月 |
7月 |
8月 |
9月 |
10月 |
11月 |
12月 |
| 北京 |
平均気温 (℃) |
-4.6 |
-2.2 |
4.5 |
13.1 |
19.8 |
24.0 |
25.8 |
24.4 |
19.4 |
12.4 |
4.1 |
-2.7 |
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平均最高気温 (℃) |
1.4 |
3.9 |
10.7 |
19.6 |
26.4 |
30.2 |
30.8 |
29.4 |
25.7 |
18.9 |
9.9 |
2.9 |
|
平均最低気温 (℃) |
-9.9 |
-7.4 |
-1.0 |
6.6 |
12.7 |
17.9 |
21.5 |
20.2 |
13.8 |
6.9 |
-0.6 |
-7.3 |
| 呼和浩特 |
平均気温 (℃) |
-13.1 |
-9.0 |
-0.3 |
7.9 |
15.3 |
20.1 |
21.9 |
20.1 |
13.8 |
6.5 |
2.7 |
-11.0 |
|
平均最高 |
-5.8 |
-1.5 |
6.7 |
15.4 |
22.6 |
26.9 |
28.1 |
26.1 |
20.9 |
14.1 |
4.1 |
-4.2 |
|
平均最低 |
-18.9 |
-15.4 |
-6.3 |
0.5 |
7.1 |
12.2 |
15.5 |
14.1 |
7.1 |
0.4 |
7.8 |
-16.4 |
内モンゴルの歴史
チンギス・ハーン以前のモンゴル
モンゴルの名をもった集団が最初に歴史上に現れるのは7世紀のことで、中国の記録に「蒙兀」「蒙瓦」などという漢字をあてられ、モンゴル高原の東端に住むに過ぎない小集団であった。のちのモンゴル帝国の時代にまとめられた『元朝秘史』や『集史』に記録された始祖説話から、北東アジアの森林地帯の人々と北アジアの草原地帯の人々が混ざり合って部族を形成したらしいと考えられている彼らは、遊牧民契丹の王朝遼が、もともと狩猟民でモンゴル高原への強い影響力をもてない女真の金によって滅ぼされ、高原に権力の空白が生まれた11世紀頃には、モンゴル高原の中部から東部にかけて広がっているモンゴル諸語を話す諸部族のうちのひとつであった。
やがて、権力の空白を突いて成長し始めたモンゴル部族は、ウリヤンハイ部族やジャライル部族などを隷属させるようになり、12世紀の中頃にチンギス・ハーンの曽祖父にあたるカブル・ハンを最初のハンに推戴して国家らしいまとまりを形成し始めた。ここでいう「部族」にあたる、遊牧民の寄り集まった政治体のことをモンゴル語でウルスといい、モンゴル部族はモンゴル・ウルスと称していた。カブル・ハンの死後、モンゴル部族の突出を警戒した金の策動により第2代ハンのアンバガイはタタル部族によって捕らえられて処刑されるとモンゴルの統一は揺らぎ、次の第3代クトラ・ハンを最後にモンゴル部族にはハンが立たなくなって、モンゴル・ウルスは12世紀後半には分裂の危機に陥った。ハンの称号を持たず、キヤト氏族の一首長に過ぎなかったチンギスの父イェスゲイ・バートルは、タタル部族と盛んに戦って勢力を広げ、モンゴルの再統一を進めつつあったが、チンギスが幼い頃に若くして死んだ。『元朝秘史』はタタル部族に毒殺されたとしている。
モンゴル帝国の形成
イェスゲイの死後、一時は支配下の部民に見放されるなどの苦労を重ねつつタタル部やタイチウト氏、ジャダラン氏などのモンゴル部内の敵対勢力を戦って独力で勢力を築き上げたチンギスは、やがてモンゴル部族の大部分を統合してそのハーンとなっていた。この力を背景にチンギスは、1203年に高原中部のケレイト、1205年に高原西部のナイマンを滅ぼし、南部のオングト、北東部のオイラトなどの諸部族を服属させてモンゴル高原の全部族を統合し、1206年に大(イェケ)モンゴル・ウルス、すなわちモンゴル帝国を築いた。これ以降、モンゴルはもともとモンゴル・ウルスに所属した遊牧民のみならず、チンギス・ハーンとその子孫の歴代ハーンの統治する大モンゴル・ウルスに集った全ての部族の総称に転化する。
モンゴルは、モンゴル帝国の拡大とともにユーラシアの各地に広まったが、中央アジアやイラン、キプチャク草原では先住の遊牧民であったテュルク系諸民族が大多数を占めたために、言語的にはテュルク化し、宗教的にはイスラム化して、モンゴル高原に残ったモンゴルとの民族的な繋がりを失っていった。
モンゴル帝国以降のモンゴル
モンゴル高原の側では、中国を支配したモンゴル帝国(元)がモンゴル高原に北走して北元となった後、北元のクビライの王統に従った諸部族と、これから離反してオイラト部族を中心に新しい部族連合を形成した諸部族の二大集団に分かれた。後者はモンゴル語でドルベン・オイラト(四オイラト)と呼ばれるようになり、前者はこれに対してドチン・モンゴル(四十モンゴル)と称される部族集団となる。明は、四十モンゴルを韃靼(タタールの漢訳名)と呼んだため、この時代のモンゴルのことはタタールと呼ばれることが多いが、自称はモンゴルのままであり、清代には蒙古(モンゴル)の呼称が復活する。
北元期のモンゴルは、オイラトや明、中央アジアのイスラム化モンゴル人であるカザフやモグールと抗争しつつ独立勢力として存続したが、モンゴルは17世紀に相継いで満州人の清に降り、またオイラトを支配したジュンガル部族が18世紀に清に滅ぼされるに至って、ほぼ全てのモンゴル系部族が清の支配下に入った。
20世紀の初頭に清が崩壊すると、清の支配が比較的緩かった外モンゴルのハルハ諸部族が中国から独立して現在のモンゴル国を立てた。一方、内モンゴルの諸部族は中国の領内に残り、現在の内モンゴル自治区となった。また、新疆ウイグル自治区や青海省に多いオイラトは、中華人民共和国の成立にともなって蒙古族の民族籍を与えられ、再びモンゴル民族の一部とみなされるようになった。
50万年前 - 20万年前ごろの猿人の化石が見つかっている。紀元前20世紀ごろにはオルドス人が住みつき始め、春秋戦国時代には趙・燕と匈奴との間で抗争が繰り広げられた。清代に入ると漢族の移住が進むようになった。辛亥革命から日中戦争の混乱の中でモンゴルのチャハル部出身の徳王は内モンゴルの独立運動を行い、日本の関東軍の援助で蒙古連盟自治政府を成立させるが、実質は傀儡政権であった。終戦後、徳王は内モンゴルを追われて1947年に現在の自治区が設けられた。自治区としては最も早い成立である。
フフホトの概要
フフホト(中国語 : 呼和浩特(huhehaote), モンゴル語 : kokekhota)は、モンゴル語で「青い都」を意味し、中華人民共和国の内モンゴル自治区の区都。日本の青森県とだいたい同じ緯度に位置する。自治区の直轄市で、人口は100万人とも120万人とも言われているが、正確な数はわからない。
現在の人口のほとんどは漢民族であり、少数民族の占める割合は2〜30%程度。市内にはチベット仏教の寺院は点在するものの、モンゴル特有と思われる要素はあまりく、市内の印象は国内の中規模な都市の印象とさほど変らない。内モンゴルでは看板等の文字の中国語へのモンゴル語の併記が義務付けられている為、街中にあふれているモンゴル語を見ると、そこが内モンゴルであること、フフホトであることを意識するかもしれない。現在ではモンゴル文字は外モンゴルでは使われなくなったため、外モンゴルから内モンゴルへモンゴル文字を学びに来る留学生もいるようだ。日本から中国語、モンゴル語を学びに来ている留学生もいるようだが、フフホトに常駐する日本人はまだまだ少なく、4,50人と言われている。
フフホトの歴史
1565年にモンゴルのトメト部長アルタン・ハーンによって、主にトメト部の支配地域に流入した漢人の定住民を居住させる町として建設された中国式の城郭都市バイシン(大板升)がフフホトの起源となっている。バイシンとは中国語の「百姓」の音訳で、遊牧民のゲルに対して、定住農民の家屋を指した語である。1571年にアルタンが明と講和して順義王の称号を与え、国境沿いで貿易することを認めると、明によって「帰化城」の名を与えられたフフホトは中国からモンゴル高原に流れる物資の集積地となって栄えた。アルタンは晩年にダライ・ラマに帰依してチベット仏教に改宗したため、フフホトへは数多くのチベット仏教寺院が建立され、オルドス地方の精神的中心地となる。
トメト部はモンゴル民族の間で中国貿易の利権を独占したため、その定住拠点であるフフホトは急速に発展するが、1628年にチャハルのリンダン・ハーンに奪われた。さらに1634年、リンダン・ハーンが病死すると満州民族の後金がフフホトを占領し、内モンゴル全域を支配して1636年に国号を清と改めた。清は、帰化城の北東隣に「綏遠城」を築き、オルドス地方の防衛を担当する八旗の駐留地とした。帰化城と綏遠城はあわせて「帰綏」と呼ばれ、清代以降、中央政府の直轄地として内モンゴルの政治、経済、文化の中心地となった。その後、1913年に帰綏の行政体が帰化県から帰綏県に改められ、1950年に市に昇格してフフホト市となった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』